この体の中に南無妙法蓮華経がもともとあるときづいたら嬉しくて嬉しくてしょうがない。これが歓喜の中の大歓喜。
此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く
所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。(p.788)
もともと備わっている南無妙法蓮華経に気づくということは御本尊に感電・感応すること。雷に感電するということは人間の中には電気があるんです。心電図が取れるということは体の中に電気があるってこと。雷に感電したら雷と同じになる。1万ボルトの電気になってしまう。雷に感電したら即死。御本尊に感電したら即身成仏。御本尊を拝んだ瞬間に自分の体の中の南無妙法蓮華経が開かれる。こっちが南無妙法蓮華経になる。御本尊に感電するんだ。人間も同じ。人間同士が感電することがある。それを恋愛という。こっちも愛し、向こうも愛する。お互いが愛し合う。両方の波長があうのが相思相愛。御本尊はあなたを仏にしたいんです。あなたを私と同じ南無妙法蓮華経にしたいんです。「私もなりたい!」と思ったら波長があうんです。
「心懐戀慕」:仏にしたい御本尊と仏になりたい私の波長が同じになるように御本尊様が恋しい、愛おしいと、御本尊様の恋人になるように拝む。早く別れたいというデートはない。御本尊大好きになって拝むんです。そういうふうに拝むと御本尊がだんだん体の中に湧いてくる。南無妙法蓮華経が湧き出てくる。そして湧いた南無妙法蓮華経を今度は大事に丁寧に体の中に染み込ませていく。自分の中の南無妙法蓮華経を丁寧に深く染み込ませて中から命を磨いていく。
深く信心を発して日夜朝暮に又おこたらず磨くべし
何様にしてか磨くべき
只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり。(p.384)
中から命をぴかぴかに磨いているという意識がないと駄目。
「私の命が御本尊と同じになるんだ。ああ、もったいない。ありがとうございます。ありがとうございます。」って磨いているかが問題なんだ。御本尊様はあなたの中の仏の心を出してあげよう。出たら私と同じだよ。同じ功徳なんだよ。私は親なんだ。一切衆生は私のかわいい、かわいい子供なんだ。他人じゃない、親子なんだから、私の功徳を全部あげるから全部受け取れ!と。
「南無妙法蓮華経」と、先祖代々の過去の謗法を消すんです。
「南無妙法蓮華経」と、今の願いをかなえるんです。どんな悩みも解決するんです。
「南無妙法蓮華経」と、未来の幸せを呼ぶんです。
いい加減かどうか、深いか浅いか、それによって功徳が違うんです。嬉しくって嬉しくって仕方なかったらどんな悩みや病気も1日で治る。
色香美味
ごちそうを食べるように、題目がおいしくなくてはならないんです。おいしい、おいしいって題目を味わわなくては駄目なんです。沸騰しなければ駄目、題目をやってるようだけど功徳は薄い。この体が南無妙法蓮華経と同じになっちゃうんだよって、ああ、もったいない。私のような者が御本尊と同じ命になるんですか?分かりました。ありがとうございます。と感謝感激でジャブジャブと命をクリーニングしていくのが勤行。そうすればどんなに大きな病気も治る。
我等が頭は妙なり喉は法なり胸は蓮なり胎は華なり足は経なり
此の五尺の身妙法蓮華経の五字なり、
此の大事を釈迦如来・四十余年の間隠密したもうなり
今経の時説き出したもう此の大事を説かんが為に仏は出世したもう
我等が一身の妙法五字なりと開仏知見する時・即身成仏するなり、
開とは信心の異名なり
信心を以て妙法を唱え奉らばやがて開仏知見するなり(p.716)
頭が妙なんだなって思うと頭がすーっとして、気持ちよくなってくる。もし頭が痛かったら妙法蓮華経の妙ではないということ。拝んでいるけど頭が痛い。これでは駄目。邪宗の先祖代々に染み込んだ残りかすがとれないってことです。中から磨き方が足りないから頭が妙にならない。広宣流布の為に仏の頭にしてください。丁寧に御本尊を体の中に湧かす。
そうすればぐんぐん治る。ああ、頭は妙法蓮華経の妙なのか?と感激し、また「ああ、今までの祈り方が浅かったな。」と決意した時に治る。向こうに御本尊を見ていると駄目。体の中の南無妙法蓮華経を見る。中に南無妙法蓮華経を見る。ずっと中をクリーニングする。中から命を磨いているんだ。という意識がない。漠然と乞食のように「いつか治るだろう。いつか治るだろう。でも治んないな。」と半信半疑で拝んでると、拝んでいながらも小さい功徳が出てくる。本当の功徳は出てこない。本当の功徳は根っこから出てくる。お題目のおいしさを味わう。おいしい、おいしいって御馳走を味わうようにお題目をあげなさいというのが「色香美味」面倒くさいけど題目をやんなくちゃなんない、やんなくちゃなんないと思ってあげると御本尊の方も面倒くさいけど功徳出さなくちゃなんない」という風になってくる。そういう功徳になってくる。
行道不行道・随應所可度
行道は歓喜と確信 不行道は怠けの題目
あなたの心の中の通りに功徳をやる。心の中に応じて功徳をやる「随應所可度」
歓喜の題目は南無妙法蓮華経が100%でる。だから「歓喜の中の大歓喜なり」
自分の心の中にはじめから南無妙法蓮華経があるんだ。御本尊がこの南無妙法蓮華経を開いてくれる。そしたら自分が南無妙法蓮華経。どこを向いて御本尊を拝んでいるんですか?
仏壇じゃなくて体の中の南無妙法蓮華経を磨くんですよ。こっちの南無妙法蓮華経がぐーっと深く染みこんだら一遍に治るんだ。笑った罰だからお題目でジャブジャブ磨く。中からクリーニングする。先祖の分まで広宣流布やります。日本一になって折伏しますから治して下さい。実証を示させて下さい。長い間信心したって確信がなかったら駄目です。中の題目がどこまで働くかが問題。3週間が勝負。短くても一心不乱・集中豪雨にやる。そしたら1時間で床上浸水まで来るんです。長いからいいんじゃない。10時間題目といっても「後8時間だ。後5時間だ」と時計を見ながら「まだ5時間も残ってる、早く終わらないかな。」「10時間終わったらどうしようかな」なんて考えちゃってる。題目が終わってから「10時間やった。」と終わっちゃってから喜んでる。そうするとやってる間は染み込まない。だから時間じゃない。祈りが深いかどうかだ。何時間やんなきゃ功徳やんないとか、何万偏やんなきゃ功徳やんないとかそんなけちくさい取り引きは御本尊はしない。おいしい、おいしいってあげるかどうかです。おいしい、おいしいってあげられたら100%ですよ。歓喜なんですよ。一念の持ち方なんですよ。ゆっくり丁寧に磨くこと。数をするのではない。丁寧に、祈りを込めてあげること。広宣流布の為に感謝感激で、丁寧に丁寧にお題目ですみからすみまで染み込ませていくこと。髪の毛の一本一本まで南無妙法蓮華経になっちゃう。御本尊と同じになっちゃう。御本尊と功徳が同じになるんだ。